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聖書のススメ
とても好きな聖書の箇所のひとつ。
バルテマイという名の盲人が主人公。
あの時代、目のみえないこの人は、物乞いをするしか生計を立てることが出来ませんでした。
物乞いをしながら、イエスという人のうわさを聞いていたのでしょうか。イエスが通られると聞いて「憐れんでください!」人々が「うるさい!」というほど大声で叫んでいるのです。叱られるとますます大声で「憐れんでください!」と。
それを聞いてイエスは「何がしてほしいのか」とバルテマイに聞かれる。そのさまが目に浮かぶのです。バルテマイは飛びあがって喜びおそらく全財産であった上着を捨ててイエスのところに行き、確信を持って「目が見えるようになりたいのです」と嬉々として答えます。
するとイエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。
目の見えるようになったバルテマイは喜んでイエスの後に従ったとあります。
空っぽのバルテマイ。まっすぐなバルテマイ。イエスしか見ていないバルテマイ。私はこれほどまでの飢え渇きにあこがれるのです。
「治してあげよう」とイエスは言われなかった。「あなたの信仰があなたを救った」と言われるのです。
もし私にイエスが「何をしてほしいのか?」と問うてくださるなら
・・・いえ、いつもイエスは私たちにそう問うていてくださる・・・・私達が気づかないだけ・・・・「神は愛することしかなさらない愛されないのは神疎外されているのは神」という言葉をどこかで読んだことがある。「神は与えたがっているのに、わたし達が求めないから・・・」と。
なら、私はイエスにどう答えるのか。「主よ、あなたご自身」
いつも思うのです。
詩編を書いた人達は今から3000年前に生きた人達。その人たちの心の闇や痛み苦しみ・・・神を求める想い・・・魂の叫び。
雅歌には人を慕う熱い想いが、コヘレトの言葉には人生への飽くなき探求心が綴られています。
人の思いの全てが、すでにここにあると思うのです。
遠い遠い過ぎ去った人々の思いが、なんの違和感もなく、自分の思いと重なるのです。
人として生きる時に、現代も数千年前も変わらないものがある。
この詩編の最後に、「あなたの光に、わたしは光をみる」とあります。
これは2年ほど前、ある尊敬する方からいただいたクリスマスカードに書いてあった言葉です。
はじめてこの言葉に出会ってドキッとしたのです。
実はこのドキッはわたしの勘違いでした。 「あなた」を文字通り「わたし」ととったのです。で、聖書を読んで、「あぁ、神に対して言っているのだ」と思ったのですが、その後もこの言葉に惹かれ続けているのです。
この詩編には溢れるばかりの神の恵みが歌われています。
そして最後に先ほどの言葉。
こんなふうに読んではいけないでしょうか。
全ての人の中に溢れている神の恵み。神の愛。神の光。あなたの中に神の光を見る・・・と。
「わたし達は歌うステンドグラスになろう」はズンデルの言葉。
神の光を背に受けてわたし達の全てが、神の光を美しく透していくステンドグラスになれたら。
楽吉左衛門の話を聞いたことがあります。
長次郎から400年。
「いつも伝統と向き合ってきて、伝統とは何かと問い続けてきた」
「伝統とは自分の中に垂線を下ろしていって、長次郎とぶつかるところ、そして現代にその自分を表現していくこと・・・」
この聖書を見つけて、思い出したのが楽さんの話。
やはり私もキリスト教の伝統をいかに現代にいのちを吹き込むか、ということを知らず知らず考えていることがあるのです。
既成の宗教は力を失った。若い人の教会離れなどと言われると居ても立ってもいられない気持ちになるのです。
何故響かないのか、何故届かないのか、何故若い人の乾きを潤すことができないのか。
求めているのに・・・
ひとつ私にとって希望があります。
それは子ども達の言葉です。
そこに光を見いだすことがあるのです。
誤解を恐れずいうと子ども達の言葉が神の言葉のように響くことがあるのです。
そこには新しさと古いものがなんの違和感もなく同時に存在するのです。
ひょっとすると響かないのは現代人ではなく、出来上がってしまった宗教の方ではないか。
倉の中から形骸化した古い物ばかりを取りだしているのではないかと自戒する。
つまりは、自分の受け継いできたものの中に、自分を生かしていくいのちを見いだしていないのでは、自分のいのちの水をそこから汲み上げていないのではないかと。
「天の国のことを学んだ学者は、自分の倉から新しいものと古いものとを取り出す一家の主人に似ている。」
その人は受け継いできた御言葉の中に、今を生きるいのちを見いだしているのです。
もう一度、楽さんの言葉。
自分の中に垂線を下ろして伝統とぶつかったところ・・・。
そして万福寺の境内に書かれてあった言葉。
「もう一堀足りないが為に水のでない人がいる・・・それは誰か」
「あなたがたは地の塩、世の光」と断定されている。
「なりなさい」と言われているのではないことに心が止まっているのです。
こんなに罪深く、不完全で弱いものが塩であり光であると言われている。
料理に味をつけ、物を腐らせない働きがあり、命を保つのになくてはならない「塩」。
他の宗教でも「塩」は清めに用いられたりしている。
わたし達のように罪が次々と湧きあがり、どんなに正しいことをしたとしてもその裏側に罪が隠されているようなわたし達。
もし、そのわたし達が塩であるというなら、イエスによってわたし達の一つ一つの罪が清くされていく過程が「塩」としての存在意味なのかもしれない。
罪の問題をうやむやにしないのがキリスト教のオリジナリテイーだと思います。
そこに、イエスの教えだけではなく、イエスの業そのものが顕れる。
イエスの十字架の死と復活。
そこに光を見出すのです。
そのイエスの光に映し出されて、こんなの愚かで弱く罪にまみれているわたし達は光とされる。
わたし達の闇の部分を光としてくださる主イエスに何度も何度も出会ってきた。
彼らがひそかに行なっているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
しかしすべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
明らかにされるものはみな光となるのです。
[エフェソの信徒への手紙5章12節~]
あなたがたは「地の塩、世の光」と言われる根拠は、私達にあるのではなく、イエスご自身にあるのです。
それゆえに、「そのように、あなたがたの光を人々の前に耀かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行ないを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
と最後に括られていことを忘れてはならない。